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アントン・ブルックナー

交響曲第2番 ハ短調

この曲はブルックナーの交響曲の中ではあまり演奏されないが、むしろメロディーの豊かな美しさでは際立った作品ともいえよう。ブルックナーの第1交響曲は1868年に初演されたが、それを聴いた友人たちはこの曲があまりに複雑で、長すぎるからこの次はもっと単純に書くようにすすめた。第2交響曲を作曲しはじめていたブルックナーはこういう批判を聞いているうちに次第に自信を失い、作曲が困難になってしまったが、1871年ロンドンでオルガン演奏を行い、これが大成功だったので、再び元気づいて第2交響曲の創作にとりかかり、1872年7月28日完成した。そしてこの曲は1873年ウィーンの世界博覧会に際して行われる音楽会で演奏されることになった。しかしVPOの楽員たちはその楽譜を見てこれは演奏不可能だといい出した。そこでブルックナーはヘルベックの忠告をいれてかなり手を加え、また削除をしてもう一度フィルハーモニーに提出したが、その楽譜はブルックナーのもとに返されてきてしまった。ところがそこに救いの手が差しのべられ、リーヒンシュタイン公爵が練習のための費用を出そうといってくれたので、ブルックナーは自費でフィルハーモニーをやとい、ブルックナー自身が指揮をして、この曲を1873年10月28日に初演した。

(途中略)

このディスクの演奏はノヴァック盤の1877年の版によっている。この曲の初演のための練習中、楽員たちがこれを「休止交響曲」と名づけて嘲った。この曲には、ブルックナーが主題を、古典派のように明確に成立したものとしては提示せず、次第に形を整えていくという、いわゆる「ブルックナーの発展原理」がすでに見えている。そのことが当時の批評家たちには「無形式」という印象を与えたらしい。(グラムフォン版日本語ライナー・渡辺護)

交響曲第4番 変ホ長調『ロマンティック』

交響曲という分野に行き詰まりの傾向が見えてきた19世紀後半の後期ロマン主義時代において、マ習作を含め11曲もの作品をこのジャンルに残したブルックナーは、後輩のマーラーとともに独自の世界を持った作曲家ということが出来よう。彼ら2人の交響曲はいずれも長大であり、大編成のオーケストラを必要とするところから、ブルックナー、マーラーというように一緒にして考えることが多いが、似ているのは外見だけで、実際は正反対の内容を持っているのである。

第一、マーラーは名指揮者であり、日曜作曲家であった。その点では現代のバーンスタインに近く、彼の交響曲がヴィルトオーゾの指揮者とオーケストラを必要とするのは申すまでもあるまい。どのパートをとっても生なかなコンチェルトの独奏よりはむずかしいくらいだ。名人指揮者と名人オーケストラのための作品、それがマーラーの交響曲であり、R・シュトラウスの管弦楽作品とも共通する。VPOの楽員がリハーサルのとき「この音符を楽譜通り全部弾くのは不可能です」とシュトラウスに言ったところ、「そうだろうね、大体のところで良いのだよ。」と答えたそうだが、VPOでさえそうなのだ。

一方のブルックナーは指揮者としてはまったくの落第生である。棒の技術もゼロだし、気が弱く、本番のとき、なかなか始めようとしないのでコンサートマスターが「どうぞ始めて下さい」というと「そとらからお先に」と答えたのだから推して知るべしだ・・・以下略。(フィリップス版日本語ライナー・宇野功芳)

交響曲第7番 ホ長調

交響曲第9番 ニ短調

インバルのブルックナーは<3、4、8番>の第1稿初録音でさらった後、しばらく間をあけて<7番>が登場した。他の3曲でノヴァーク版第3版を忠実に再現していたインバルが果たしてどの版を使うか注目されたのだが、意外にも<7番>では改定版、ハース版、ノヴァーク版の折衷版とも言うべき独自の解釈を採用していたのである。敢えて言えば「ノヴァーク版の第U楽章から、シンバル、トライアングルを省いたもの」ということになるので、邦盤はノヴァーク版としてあったが、テルデックの原盤には何版とも書かれていなかった。今回の<9番>も原盤には、やはり版の表示は見当たらない。しかし版を明示しない理由は<7番>の場合と全く逆なのだ。<9番>ではノヴァークがハース版をそのまま版下に用いたため、V楽章83小節〜の低弦、同229小節〜の管、等で書法上の微細な相違はあるにせよ、両版が実質的に同じものと見做しうるかに他ならない。



Last modified: Thu, 11 Oct 2012 20:14:01 +0900
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