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デューク・ピアソン

デューク・ピアソン(Duke Pearson、1932年8月17日 - 1980年8月4日)はアメリカ合衆国のジャズピアニスト、作曲家。オンライン・データベースの「オールミュージック 」は、「プロデューサーとして、ブルーノート・レコードの1960年代におけるハード・バップ路線の大部分を肉付けした」人物と評している。

ジョージア州アトランタ生まれ。本名はコロンバス・カルヴィン・ピアーソン・ジュニア(Columbus Calvin Pearson, Jr)という。最初は5歳で金管楽器を学んだが、歯の問題から別の楽器に切り換えざるを得なくなり、ピアノを覚え始めた。楽才が芽生えると、おじからデューク・エリントンにあやかって「デューク」というあだ名を頂戴する。クラーク・アトランタ大学に在学中は、アトランタ周辺の楽隊に加わり、トランペッターとしても活動した。1950年代に米国陸軍に入隊。

ニューヨークでは、アート・ファーマーや、「ジャズテット」ことベニー・ゴルソン・クィンテットと共演しているところをトランペッターのドナルド・バードが目撃して、ピアソンに注目するようになった。その直後にバードから、ペッパー・アダムスと結成した新しいバンドに入団するように頼まれている。また1961年には、ナンシー・ウィルソンのツアーの伴奏者を引き受けた。同年バード=アダムス・ショーの前に病気になり、新入りのハービー・ハンコックと交代した。結局「ジャズテット」のキーボード奏者の地位は、永久にハンコックのものとなった。

1963年にドナルド・バードのアルバム『ア・ニュー・パースペクティブ』の収録曲のうち4曲を編曲し、そのうち《贖い主キリスト(ポルトガル語: Cristo Redentor, コルコバードのキリスト像を指す)》は大ヒットを収めた。(この曲は、バードがウィルソンとの演奏旅行でブラジルを訪れた際の印象に基づいている。)同じく1963年にアイク・ケベックが亡くなると、ブルーノート・レコードの後任A&Rとしてアーティストのスカウトも担当した。1963年から1970年までブルーノートの数多くのアルバムのために、セッション・ミュージシャンやプロデューサーを務め、またバンドリーダーとして自身のアルバムも録音した。

1966年にブルーノートがリバティ・レコードに買収されると、役員が変わった。創設者のひとりアルフレッド・ライオンは1967年に引退し、もう一人の創設者フランク・ウルフは1971年に亡くなった。ピアソンもついに1971年に同社を退き、クラーク・カレッジで教鞭を採るようになった。1973年はずっとカーメン・マクレエやジョー・ウィリアムズとツアーに出ており、最終的にはその頃に自身のビッグ・バンドを再結成している。1970年代に多発性硬化症を患い、そのため1980年にアトランタ退役軍人病院で死去した。(Wikipedia)

  1. Wahoo! (1964)

Wahoo! (1964)

Wahoo.jpg
  1. Amanda (Duke Peason) 9:23
  2. Bedouin (Perason) 9:28
  3. Farewell Machelle (Pearson) 2:46
  4. Wahoo (Pearson) 7:17
  5. ESP (Extrasensory Perception) (Pearson) 7:48
  6. Fly Little Bird Fly (Donald Byrd) 6:11
Donald Byrd, tp; James Spaulding, as, fl; Joe Henderson, ts; Duke Pearson, p; Bob Cranshaw, b; Mickey Roker, ds; Recorded at the Van Gelder Studio, New Jersey on November 24, 1964 / To. TOCJ-4191 (1995.4.26) (BN. 84191)


Last modified: Fri, 02 May 2014 11:44:11 +0900
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